かまくら読書会

カズオ・イシグロ 『遠い山なみの光』

読書会 『遠い山なみの光』の補足

先日の読書会カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』で、原著と日本語訳の違いについて紹介し忘れた箇所がありましたので補足しておきます。 詳しくは英文学者の平井杏子さんが『カズオ・イシグロー境界のない世界』の中で書かれていますのでそちらを参照してくださいね。鎌倉市図書館にもあります。

翻訳が問題になっているのは、物語の終盤でアメリカ(神戸)行きを嫌がる万里子を悦子が諭すシーンです。(『遠い山なみの光』ハヤカワepi文庫 p.245)

「とにかく、行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ」
こんどは、万里子は何かを聞きたげにわたしを見上げた。
「そう、ほんとうなのよ。行ってみて嫌だったら、すぐ帰ってくればいいのよ。でも嫌かどうか、まず行ってみなくちゃ。きっと好きになると思うわ」

原文は以下になります。

“In any case,” I went on, “if you don’t like it over there, we can always come back.”
This time she looked up at me questioningly.
“Yes , I promise, ” I said. “If you don’t like it over there, we’ll come straight back. But we have to try it and see if we like it there. I’m sure we will. ”

1行目に注目すると、 “if you don’t like it over there, we can always come back.” が「行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ」と訳されています。けれど原文では後半の主語は we なので、直訳すると「もしあなたが気に入らなかったら、わたしたちはいつでも帰ってくることができるのよ」になります。 2行目以降も同じような文章になっていて、悦子が友人の子である万里子を説得している場面であるはずが、なぜか悦子自身も含めた話になっています。

本作は、イギリスに移住した悦子が、長女景子の自殺と次女ニキの帰郷を受けて、戦後日本で暮らした過去を回想する物語でした。しかしながら、上記の原文を踏まえて解釈すると、悦子の回想は彼女が経験したありのままの記憶を思い出したものではなく、実は記憶と妄想が混じりあって作り上げられた虚構の物語だったのではないかと読むことができます。

もう少し踏み込んで、物語のなかで悦子が「記憶はあいまいだが、」というようなことを何度もつぶやいていたことや、最後に回想する稲佐山にロープウェイで一緒に登ったのが万里子ではなく景子であったこと(p.259)、さらに万里子が見た子殺しの女の姿(p.103)と猫を川に沈める佐知子と悦子の姿(p.237)が妙に一致することなどを考えていくと、「悦子=佐知子」「景子=万里子」ではないかという読解すらできるかもしれません。

読書会でもちょこっと話題に出たAmazonのレビューで「原作を読むと、終盤に衝撃的なストーリーの転換があります。全く趣の異なる本になってしまっています。」という投稿がありますが、たぶん上記の翻訳部分のことではないでしょうか。「悦子の回想だと思って読んでいたら、実は虚構たっだ。小野寺健さんの翻訳は考慮されていない、間違っている。」という感想だと思います。

(; ・`д・´)!

と、ここまで書いて大急ぎでさらに補足しておきますと、この原文の箇所を指摘された平井杏子さんはことさら本作を虚構の物語として読めと言っているわけではありません。そもそも原著と日本語訳を比べて翻訳の間違いを指摘する評論だったわけでも全くないです。 (たぶん、、本が手元にないので確認できない。。)

平井さんによると、カズオ・イシグロの初期3作『遠い山なみの光』(82)、『浮世の画家』(86)、『日の名残り』(89) は現実の世界を舞台にしたリアリズム小説として一般的には評価されているそうです。(だからイシグロさんが描く日本やイギリスがホンモノかどうかが話題になる)
その後、『充たされざる者』(95)では架空の街を舞台にした超現実的(カフカ的)な作品に一転し、『わたしたちが孤児だったころ』(00)では探偵小説を、『わたしを離さないで』(05)はサイエンスフィクション、『忘れられた巨人』(15)ではファンタジーといった非リアリズムの世界に移行していきます。
平井さんが著書のなかで論点にされたのは、実はイシグロ作品は長篇デビュー作『遠い山なみの光』の頃からすでに超現実的な世界の萌芽を見ることができるのだ、ということだったと思います。 イシグロさんのキャリア全体を見直す、そういった文脈での指摘だったんですね。

個人的には、翻訳が間違っているとか、悦子の虚構の物語として読むことが正しいとか、そんなふうには全然思いませんし、できればもうちょっと別のところに作品のテーマを読みたいです。 先日の読書会に引きつけるならば、必ずしも白黒つける必要もないと思います。

平井杏子さんの『カズオ・イシグロー境界のない世界』は優れた評論だったので、もし『遠い山なみの光』がイマイチだった方は第一章「反転する地図」を読んでいただくといろいろ発見があると思いますよ。

それでは次回も楽しみにしています。